今は昔。
午前様を過ぎても仕事をしていた当時の職場からほど近いところにすかいらーくがあった。
仕事の帰りにみんなで遅い夕飯を食べによく言ったもので、ご飯を食べながらあそこの縫い方はこうだ、工程はこっちの方がいいんじゃないか? などなど、結局朝方まで飽きずにしゃべり通して家路につく生活をしていた。
1日の大半を仕事に費やして、土日も休みなく働く毎日。それでもとても楽しい日々だった。
若いから体力もあったし、何より縫うことが際限なくできる環境がたまらなく楽しかったのだ。
そんな生活も2年が過ぎた頃、自分で仕事を取ってこいと言われた。 寝耳に水だった。
自分は単なる縫い子で誘われたと思っていたし、実際営業なんてやったこともない。
知り合いから多少お仕事を頼まれたりしてはいたが、食べていける量には程遠かった。
さらにこんなことも言われた。
こちらからは仕事を出さないから、自分で取ってきて自分で仕事を回せ。こっちはこっちでやるから、そっちも自分で。
ミシン場と裁断台は自由に使っていいから。
私に選択肢はなかった。
幸い大口の仕事を頼まれたりして、仕事はめいいっぱい入っていった。
ちょうど徹夜の仕事がしんどくなり始めていたり(元々体が丈夫でない上に今まで徹夜なぞしたこたがない)したこともあり、お互い別々で作業していた。
裁断第1台、ミシン3台の場所。こちらは一人。あちらは3人。
当然サンプルの時期はバッティングするから、あちらの使っていない隙に裁断台を使わせてもらう。
私は早朝裁断することにして早々に帰ることにしていた。
そんな時、朝来てみたら私が使っているミシンのところだけ掃除されていなかった。一目でわかるように。
使おうと思っていた裁断台も、すでにあちらが使っていた。
4人で使っている小さな部屋で、私以外の3人で打ち合わせ(私は別働隊なので声もかけられず)。
私以外の3人で組み立てた作業日程には、私の入る隙はなかったのだ。
その時、プツッと何かが切れた。
仕事場に向かおうとすると動悸がしてくる。足が重く、前に進めない。
仕事を家に持ち帰るようになり、仕事場に顔を出せなくなった。
もうだめだ。おかしくなる寸前だった。
自分だけの仕事場を作ろう。
そうして自宅に作業場を作れるところに越したのだ。
あの頃のことを思い出すと、今でも鬱々な気分に押しつぶされそうになるが、それでも食事をしながら朝までいたファミレスの思い出だけは、宝物だと思える。
そのファミレスもとうとう24時間で無くなる。時代か。
ファミレス午前3時 稲葉浩志氏の名作。 是非聞いてみてください。